長く中国に関心を持ち、様々な観点からウオッチしてきた私にとって、今までの中国観の変更を迫られる本に出会った。王雲海「『権力社会』中国と『文化社会』日本」である。
私の中国観とは、ソ連の崩壊によって共産主義への全面依存を修正せざるをえなくなり、その分国内的な求心力を反日教育に求めたというもの。20世紀の中国は、先進資本主義列強に侵略された経験から強い劣等感を持つに至り、ようやく今になって回復の兆しがあるものの、いびつさはいなめない。眠れる獅子の目覚めは、日清戦争いらいの優越感に酔ってきた日本にとっては、報復の脅威となっている。今まで、中国の学者や要人と会う度に、大胆且つ不躾に、こうした考えをぶつけてきた。それは日中友好意識とはほど遠く、嫌中意識からくるものかもしれない。
しかし、この本は、そうした私の中国観に微妙な修正の必要性を惹起した。それは、「中国人と日本人の間には、発想上の大きな違いがある」という点。あまたの実例があげられているが、面白く感じたのは、年賀状への対応。中国人は、新しい知り合い→従来の関係者→友人→親戚→家族となる。つまり関係が親しければ親しいほど年賀状を書かないか、後回しにするという。これは、日本とは正反対である。また、中国でいう友達は、いざという時に何かをしてくれる者であって、規則正しく礼状を書くかどうかなどは重要ではない。礼儀・儀式にこだわりすぎるとかえって距離感がうまれる。こうしたことから、「日本・日本人こそが友好国・友人であるとの思いが強ければ強いほど、中国の人々はODAや円借款を当然のこととして感じとり、いちいちありがとうとはいわなくなる」―これは私には”目から鱗”だった。日中間の様々な行き違い、認識ギャップとでもいうべきものが、こうしたことから起きているとしたら・・・。
(この項続く)
Posted on 07.03.28 by AKAMATSU Masao
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