毎日新聞8月10日(日)付け5面の「発言席」に私の寄稿文が掲載されました。目にされる機会のなかった方から要望がありましたので転載いたします。
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失業中の患者が治療費を払えないため、足の傷を自分の手で縫う―米国医療の暗部を衝くマイケル・ムーアの映画「シッコ」の冒頭シーンだ。以前に観た映画「ジョンQ―最後の決断」は、心臓移植を息子に受けさせたくも、医療保険が使えぬとあって、病院を占拠してしまう父親の姿を描いていた。世界最高の医療技術を持ちながら、貧しい人々は無保険の中であえぐ。日本の近未来像だと恐れる人は少なくない。
発足から半世紀。国民皆保険制度を誇ってきた日本の医療も危うい。この4月に導入された高齢者医療制度は、起死回生の一打のはずだった。2年前に副厚生労働相としてかかわった私は、批判の嵐のなかで原点への回帰に思いをはせたものだ。
貧しい老人は死を待つだけとの時代を経て、「老人医療費無料化」から「老人保健制度」の導入へ。この流れから「病院待合室のサロン化」「ハシゴ受診」「検査・薬漬け」などと称される課題が浮き彫りになってきた。各種の病に見舞われがちな老人世代に対し、どう手だてを講じるか。老健制度に代わる制度を模索する中でさまざまな議論がなされた。散漫な治療から、集中的に一人の医者が一人の患者をかかりつけで診ていく。病院へ、医療機関へとやみくもに向かいがちな老人を、地域社会、在宅での診療に振り向けられないか。過剰な医療費投入を抑制しながら、老人が人間らしい尊厳を持って最終章を迎えるには、どうすればいいか。
長期的な視点に立った理想が勝ち過ぎて、現実に受け入れられるかとの懸念もあった。だが、生死を見据えた医療のビジョンを育て、定着させたいとの思いがまさった。今回の制度の骨格は三つ。すなわち、世代間不公平(加重する現役世代の負担増)、世代内不公平(1人暮らし老人と被扶養者老人の差)、地域間不公平(住む市町村による違い)を公平なものに近づける狙いをもった骨格である。75歳以上を切り捨てる発想などでは毛頭なく、現役世代とOB世代とが手を携えて、共に自立を目指す仕組みである。これらの構想の本質が正面から語られることなく、「姥捨て山にするのか」「75歳以上の高齢者は死ねというのか」などとヒステリックな感情論が目立つのは誠に残念だ。法成立以後、年金をめぐる社会保険庁のずさんな体たらくが発覚した。このため、不信と不満の渦中に、新制度も巻き込まれた不幸があるにせよ、骨格の理念の方向性はもっと強調されてよい。
例えば、諏訪中央病院名誉院長の鎌田實氏は、総合雑誌上で、全体的には辛らつな批判を展開しながらも、かかりつけ医制度や出来高払いから包括払い制度への転換が、「医療崩壊」を乗り切るための「大きな仕掛けになりうる」し、「救世主」にもなる可能性を論じていた。このくだりには干天の慈雨を感じ、我が意を得た思いがした。
老人保健制度に代わる新たな制度の創設をかつて唱えた勢力が一転、先の国会の最終盤で、自ら否定したはずの元の制度に戻せとした。党略はつきものにせよ、あまりの無責任さにあきれ果てた。ともに、声高な反対論を前に、法律を作った側にたじろぐ姿が散見されたのはいささかみっともない。制度の運用改善は当然なされるべきだ。ただし、骨格にかかわることまでが変更されてはならない。新しい制度導入にあたり、政治家の本領は、確たる信念を持って国民にあるべき道を提示することに他ならぬと銘記したい。
Posted on 08.08.21 by AKAMATSU Masao
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