臓器移植法案改正案のうちA案が衆議院で可決した。この問題については、医療関係者や患者団体などの間で、入り組んだ形での大きな対立の溝がある。A案に賛同する人たちも、ここまでくるのに随分と時間がかかったことについて厳しく批判しており、逆にA案が成立するのは、とんでもない事態だとして批判する人たちとの間での意見の食い違いは想像以上に大きい。共に、国会議員が真剣に考えた結果なのかといった具合に、政治を批判しているところが共通しているように思われる。
この問題についての私自身の投票行動は、これまでも述べてきたように、脳死を人の死として臓器移植を積極的に行うことに慎重であるべきだとの態度である。今そこに、臓器を必要としている人がいて、他人の死によって得られる臓器を移植すれば命が永らえることが出来るのに、なぜそれをしようとしないのかとの意見にはどうしても与することが出来ない。確かに、もっと生きたい、との本人の希望や、もっと生きながらえさせたいとの家族の気持ちは分かる。しかし、その気持ちを尊重するあまり、人の死を待望し、臓器の移植を望むということには、疑問を持たざるを得ない。
不完全な臓器を持つに至った自身の宿命を見つめる気持ちと向かい合うことが第一で、そこを曖昧にしたまま、他人の臓器に期待するということについては、私の死生観が納得しない。人間の生命は永遠であるとの観点、また臓器一つ一つにもその人間の個別の傾向が内在しており、別の宿命を持った他人の命のなかで果たして共存できるのか、などと考えてしまう。勿論、自分の臓器を人の生命維持に役立てることができれば、それはいいと考える人がいることまでも否定するつもりは全くない。しかし、脳死を人の死と決める一方で臓器売買が横行している状況をみるにつけ、あくまでこの種の問題については、人間観、死生観や宗教観にたった深い洞察が必要で、慎重を期すことが大切であると思う。
Posted on 09.06.19 by AKAMATSU Masao
Filed under: 赤松正雄のブログ

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