気がついてみたら、ほとんどこの人の作品を読んでしまっている。彼女が亡くなって10年。最近では、いわゆるガイドブックの類いまで読んでいるから、我ながらその入れ込み方は尋常ではないと思う。この度も、極め付きの案内書を一気に読み、いま余韻に浸っている。湯川豊『須賀敦子を読む』である。
須賀敦子さんのものを読むようになったのは、かれこれ10年前、その死の直後くらいからだ。湯川さんと言う人は、かつて編集人として須賀さんを担当。いまは、大学教授。たまたま9日の聖教新聞の文化欄に、「須賀敦子を読み解く」とのタイトルで、著者インタビューが掲載されていた。そこでは、「エッセーという枠組みの中で、ヨーロッパの小説技法を徹底的に使いこなしている」ことが、須賀敦子の魅力の中核にあるというのだが、あまり意識したことはない。
ミラノ、コルシア、ヴェネツィア、トリエステ、ユルスナールと地名が冠せられた五冊のエッセイ集。これらのひとつひとつを溶き解いてくれ、余すところがない。「須賀のエッセイは、人や事物、あるいは本の世界を語るときでも、具体的な物語をつくっていて、抽象的な思索に傾くのを拒んでいる」との指摘がなされる。そのあとで、同じように異国体験をエッセイで表現した森有正のものが「きまじめな人生論に傾いてゆく気配を示した」のと対蹠的との捉え方が提示されており、興味深い。
須賀敦子の魅力を私はどう感じて今まで読んできたのだろうか。カトリック信仰者としての実践活動と、「書くという私にとって息をするのとおなじくらい大切なこと」との両立を意識して、未完のままに終わった「アルザスの曲がりくねった道」のくだりがヒントを与えてくれた。「文学と宗教は、ふたつの離れた世界だ」が、「もしかしたら私という泥のなかには、信仰が、古いハスのタネのようにひそんでいるかもしれない」と須賀敦子は晩年に書いた。いままでの仕事はゴミみたいなもんだから」と、死の直前に語ったという彼女の言葉が紹介されている。恐らくは「信仰と文学」を初めての小説という形態で表現しようとしたものと思われる。こうした確かなる信仰に裏付けられた、一途なまでの書くことへの執念こそ、私が感じてきた魅力に違いない。この解説を持ってひとまずは私の「須賀敦子読書行」も区切りにしたい。
Posted on 09.07.11 by AKAMATSU Masao
Filed under: 赤松正雄の読書録ブログ

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