もし、ガンジーが暗殺されずに、生き続け、独立したインド政府の元首になっていたら、どうなっていたか。60年余後の地上に展開されている事態の打開に、決定的な役割を果たす国家モデルを示したにちがいない。C・ダグラス・ラミスの『ガンジーの危険な平和憲法案』は、そう呼び掛ける。
この本は、私が尊敬してやまない大先輩に選挙後に勧められた。選挙後の堅い頭に染み入るには、少々てこずった。金融資本主義の暴発とテロとの戦いで「第三次世界大戦」の暗い淵を覗きつつあるとされる現代人にとり、読んで損はない思索のヒントを与えてくれよう。
「20世紀の国づくりをしたリーダーたちのうち、国家元首にならなかったのは、ガンジーだけ」―なれたのに、ならなかったのか、それともなれなかったのか?膨大な講話から憲法にかかわる部分をまとめた「自由インドのためのガンジー的憲法案」が60年前に刊行されていながら、黙殺され、議論の対象にすらならなかった経緯を追う中で、謎は解かれる。
それは、弟子たちですら持て余した、ガンジーの思想の“過激なまでの理想主義“だった。非暴力を根底に置く理想主義者・ガンジーによって構築されたインドが結果的に、当の張本人の構想とは別の歩み方をしてしまったのは、一般的に国家には無理な試みをめざしたからと受け止められている。「倫理的な手段ばかりを利用して国を独立まで指導した人は、独立後に生まれる暴力国家の悪質な手段をどうして用いることができるだろうか」―そうした変身ができないガンジーは、あくまで非協力、非暴力に徹して植民地支配から脱しての国作りを進めようとした。
地域の最前線に小さな村組織にも似た数多の「国家的組織」を作り、非協力、非暴力の拠点にするとの構想は、「軍事力だけでなく、警察の強制力も、強制的な処罰も、つまり国家の「正当な暴力」そのものが構造的に排除されている」として、その徹底した平和主義を描く。
日本の憲法9条は、「熱烈で雄弁ではあるが」、その本質は「(警察制度、監禁制度、死刑制度など)正当な暴力を独占しようとしている、まったくの普通の国家なのだ」と、インドの幻の平和憲法を日本のそれとを対比する。戦争を放棄し、交戦権が否定されているがゆえに平和憲法であるとの捉え方の甘さを指摘する。
金融と軍事力とが共に国境を越え人々を破滅に導いていこうとしているかに見える今、およそ非現実的そのものに見えていたガンジーの思想が、最も現実的な打開策を暗示していると思われると言うのだが…。希望的観測にすぎようか。
Posted on 09.10.23 by AKAMATSU Masao
Filed under: 赤松正雄の読書録ブログ

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