ウソつきでないと小説家にはなれない!?

 ウソつきでなければ、小説は書けない―かねてよりの私の持論である。ある著名な作家と懇談した際に、不躾にも同意を求めたことがあるが、「うーん。まぁ、そういう側面はありますね」との答えが返ってきた。「私のこだわり人物伝」シリーズ第三弾の『鹿島茂が語る山田風太郎』は、この私の持論を肯定し、かつ丁寧に解説してくれている。鹿島茂さんは、毎日新聞の読書欄でのお気に入りだが、風太郎好きには堪えられないほど面白い。

 風太郎の「大ウソ」と司馬遼太郎の「小ウソ」の比較で始まる人物論は、「通常の時代小説が『ありそうな』推測で埋めるのに対して、山田風太郎の時代小説は『あり得るかもしれない』推測で満たす」というように展開されていく。「与件と結論さえ同じであれば、どんな別解(ウソ)も可能」との、風太郎の世界は荒唐無稽の筋道を自由奔放にたどる。創造力の豊かさここに極まれりで、小さなウソさえままならない私など天を仰ぐのみ。

 戦時中に医学生として青春を過ごした風太郎には、忍法帖シリーズから明治ものまで幅広いジャンルでの作品群がある。加えて一連の戦中・戦後の日記ものも強烈なインパクトを今に残す。戦時に意味を持つとは思えぬ文芸言論になぜ自分は眼を向けるのかとの自問をした風太郎は「余が信ずる男児有為の事業に、余自身力不足なりと知るゆえのみ」とへりくだって答えているあたりはなかなか奥が深いように思われる。「政治という『無意味な渦』がうたかたのごとく消えたあとも東山銀閣寺という『美の世界』」を残したとされる足利義政と風太郎とを同一視した結論の披露には唸った。巻末に二つの時代物短編が収録されているが、これがまた読ませる。


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